八尾市立歴史民俗資料館は、市内の文化財を調査研究し、収集保存を図るとともに、展示などを通して広く公開する施設です

  • 開館時間

    午前9時〜午後5時(⼊館は午後4時30分まで)

  • 休館日

    毎週⽕曜⽇(祝⽇にあたる場合は開館) 年末年始・その他

  • 住所

    〒581-0862 ⼤阪府⼋尾市千塚3-180-1

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Kawachi-momen
河内木綿の部屋

Part.01 河内木綿とは

江戸時代から明治時代のはじめにかけて、河内地方で栽培された綿から糸を紡いで手織りされた木綿のことを、一般に「河内木綿」といいます。 日本で綿が広く栽培されたのは、15世紀末ごろの戦国時代といわれています。 当時木綿は朝鮮半島から輸入された高級品でした。やがて木綿の原料となる綿の国産化が試みられるようになりました。 河内地方で、いつごろから綿が栽培されたのかは、はっきりとわかりませんが、少なくとも江戸時代のはじめごろには、盛んに栽培されていたようです。

江戸時代に河内での綿栽培や木綿生産が盛んであったことは、いくつかの記録で明らかになっています。 17世紀に刊行された『毛吹草』という本には、河内の特産のひとつとして「久宝寺木綿」が紹介されています。 同じく17世紀の刊行である『南遊紀行』には、「河内は綿を多く栽培し、とくに東の山のふもとあたりが多く、 その綿から織った山根木綿は京都で評判になっている」と記されています。

18世紀の初め、1704年(宝永元年)に大和川が付け替えられると、それまでの川床が畑として生まれかわり、綿作りがますます盛んになりました。 18世紀中ごろの久宝寺村(現八尾市)の田畑の作付状況の記録には、村の耕地の7割に綿を植え付けたと記されています。 八尾や久宝寺、周辺の村々には木綿を扱う商人が増え、仕入れや販売の競争が激しくなりました。1755年(宝暦5年)には、 八尾の木綿商人の仲間と、高安山麓の木綿商人の仲間が、商売の仕方についての取り決めをしています。

明治時代になると、繊維の長い綿や細い綿が外国から輸入され、工場の機械で一度にたくさんの綿が紡げるようになりました。 河内の綿は外国の綿に比べて繊維が短く、糸が太いため機械で紡ぐことには適していませんでした。 明治30年代には、産業としての河内木綿は終わりをつげました。 ある古老の話では、「婚礼荷物で用意する木綿の布団は、やはり本当の河内木綿でないと」とよくいわれ、大正時代ごろまでは残っていたようですが、 そうした習慣も少なくなり、江戸時代の伝統を受け継いだ「河内木綿」は、戦前までに姿を消してしまいました。

Part.02 河内⽊綿の特徴

河内⽊綿は庶⺠の⾐料でした。
その特徴は、⽷が太く、ごつごつした肌ざわりにあるといいます。
しかし、洗うごとに布地は滑らかになり、しかも丈夫で⻑持ちするということから、仕事着などに最適であり、
また、商家の暖簾(のれん)や幟、また蒲団地などに重宝がられました。

河内⽊綿の⽂様や柄は多種多様で、はっとするほど美しいものがたくさんあります。
特に、縞柄は「河内縞」という⾔葉があるほど河内⽊綿の特徴の⼀つで、さまざまな柄が創意⼯夫されています。
また、型染による紺地に菊花唐草⽂などの⽂様もよくみかけます。
さらに、婚礼の際の蒲団地には、時には、絵の⼼得のある無名の染織職⼈が
鳳凰や鶴⻲などの吉祥的な絵柄をフリーハンドで豪快に描いています。

江⼾時代には、庶⺠の布地として、美よりも⽤に重きが置かれた河内⽊綿ですが、
今⽇では、改めてその美が注⽬されています。

PATTERN 河内⽊綿の⽂様‧柄

縞柄

さまざまに染められた⽊綿⽷を縦横に組み合わせて柄を構成させたものです。 ⼤別すれば、竪縞と格⼦縞に分けられます。 ⽤途からみると、細かい柄は着物⽤、太い縞柄で構成されているものは蒲団地⽤です。

型染の⽂様

型染とは、⽩地の⽊綿布に、⽂様を形どった型紙(厚⼿の澁紙で鈴⿅⽩⼦産が有名)を置き、糊で防染した上で、染料につけて⽂様を抜き出す技法です。 河内⽊綿の型染⽂様では、菊花や桐、牡丹、唐草などの植物や、鶴⻲、鳳凰などの吉祥(めでたい)系の動物を図案化したものがよくみられます。

Part.03 綿を作る

このコーナーでは、綿作りについて、江⼾時代の『綿圃要務』という書物の挿絵や、
資料館での綿栽培の⼀年などを紹介します。

綿は⼀年⽣で、河内では⼋⼗⼋夜ころ(現在の暦で5⽉初旬ころ)に種を蒔き、夏祭りころ(新暦7⽉下旬ころ)に花を咲かせます。
そして、お盆(新暦8⽉中旬)のころから、およそ⼀か⽉かけて、⽊の下の⽅から順々に綿が吹き、 収穫されました。

以下、江⼾時代後期の農学者、⼤蔵永常があらわした畿内近国の綿作りに関する書物(『綿圃要務』)から、
当時の綿作りの⼀年を紹介します。なお、原本の挿絵は無⾊ですが、わかりやすいように、⾊をつけました。

江⼾時代の綿作り

(1) 綿の種を蒔く

綿の種まきは、⼋⼗⼋夜前後(現在の5⽉初旬)前後から夏⾄前(6⽉中旬)頃、地域やその年の気候をみはからって、蒔かれました。 ただしあまり遅いと、実が少なくて、⽊ばかり茂ってしまうので、注意が必要です。

種を蒔くとき、⻨の作ったあとにするのがよいと考えられていました。 地域によって異なりますが、ときには、⻨刈り前に、その根元に蒔く場合(図左)もありました。なるべく早く収穫できるようにという⼯夫です。

また⻨を刈り取ったあと、⻨の株を残して蒔く場合もあります。あるいは、地ならしして蒔く場合もあります(図右)。

河内国の「半⽥(はんでん)」

河内地⽅の中部(⼋尾周辺)では、⽔⽥の中に畑をつくり、綿の種を蒔く⽅法がありました。 これを、「半⽥(はんでん)」あるいは「嶋畑(しまばた)」などといいます。河内の綿作りの特徴の⼀つです。

【本⽂抜粋】河内国綿作りやう

河内国若江郡⼋尾‧平野辺は其国の中程にて、⼤坂をはなるること⼆三⾥程東に当れり。 ⼟地は砂真⼟にして、所々にしめ⼟とて、下には堅き⼟あり。 平野辺(⼤坂より⼆⾥東)辺は、是も砂真⼟にして、所∕\左程の深⽥にはあらざれども、泥がちの湿気の⽥ありて、 半分(はんだ)(半⽥の図奥にあり)と号して、盤に⾹を盛たるがごとく、壱畦は⽥、壱畦は畑にして、⼟をかき揚げたる⽅に綿を作り、 低き⽅に稲を作るを、掻揚⽥(かきあげた)ともいひて、其⽥の処に⽔溜れども、畑はよく乾き、殊に⽥⼟を揚げたるものなれば⼟肥て、 外の肥し半分⼊て綿よく出来、⽔⽥の稲も⼀段⾒事に出来るなり。(以下略)

河内国辺にて、⽥の⼟をかきあげ、⽊綿をつくり、ひくき溝へ稲をつくる。是を半⽥といふ

(2) 灌漑、施肥、手入れ

図左は、綿に水や肥料をやっているところです。

図左の上側の図は、水肥(みずごえ。糞尿の混合物)をやっているところです。 芽が出始めたところの側に鍬で溝をつくり、桶で運んできた水肥を流します。

図左の下側の図は、底に穴をつけた「底ぬけ担桶(そこぬけたんご)」で水をかけているところです。 底に棒で開閉できる栓があって、井戸や川から水を汲んできて、必要なときに栓を開けて水をかけます。 ただし、このやり方は綿が小さい頃までで、大きくなったら、畝の間に水を流して、根元に水をかけます。

図右は、生えてきた芽のうち、よいものだけを選んで、残りを抜き、生えていないところに植え替えをしているところです。 蒔いても、芽がでない種もあるからです。

この図は、木末(きすえ)の芽を留(とめ)る図です。

現在の暦で7月くらいになり、綿が腰あたりまで成長すると、 先端の芽(木末の芽)を摘んでやります。こうしないと、どんどん背が伸びるだけで、ふっくらとした綿の実ができないからです。葉ばかり繁らせてはだめなのです。

(3) 綿を摘む(わたをつむ)

綿を収穫しているところです。現在の暦で八月の中ごろから白い綿ができます。 綿ができることを「綿がふく」といいます。また、綿を収穫することを、「綿を摘(つ)む」、「わたとり」などといいます。(図左)

摘み取った綿を家に持ち帰り、重さを量っているところです。綿を藁で編んだ袋にいれて、「さおばかり」と呼ぶ道具で重さを調べています。綿を売買するときは、重さを量って行われます。(図右)

(4) 綿を繰る(わたをくる)

摘み取った綿には種がはいっています。種のはいった綿を「実綿(みわた)」といいます。 実綿のまま、商人に売ることもありますが、家で加工する場合もあります。

実綿の中の種を取り除く作業を「綿繰り(わたくり)」といいます。 「綿繰り機」という道具を使って、種と綿を分離します。分離した綿を「繰綿(くりわた)」といいます。

また取り除いた種のうち、良いものは翌年の種蒔き用に保存しておき、残りは、種屋に売ります。種は絞ると、油(綿実油)がとれます。

綿を出荷する

右の図では、大坂の綿問屋の様子を描いています。 実は、河内で産出された綿のほとんどは、大坂に集められていました。そして、大坂の商人の手を経て全国に出荷されていました。

このため、江戸時代の後期になると、河内の綿作農家などの中からは、「大坂の綿商人が、綿を強制的に安く買いたたき、困っている」という声が高まりました。 そして多くの農民が結集して、「国訴(こくそ)」と呼ばれる訴訟(裁判)を起こしました。 その結果、大坂の綿商人による強制的な綿の買占めは禁止となり、河内など生産地の綿作農家や綿商人が自由に売買できるようになりました。

なお、河内木綿の原料となる綿は、大坂など各地へ出荷されなかった残りの綿を使っていました。

資料館 綿作り日記

Part.04 ⽊綿を織る

摘み取った綿から⽷にするまでには、
綿繰り(わたくり)、綿打ち(わたうち)、⽷つむぎなどの⼯程があります。

綿から⽷へ

(1) 綿繰り(わたくり)

摘み取って乾かした実綿(みわた)を綿繰機で綿(繰綿)と種にわけます。

(2) 綿打ち(わたうち)

繰綿(くりわた)を綿打⼸(わたうちゆみ)で打って、繊維をほぐします。

(3) 綿筒(わたづつ)を作る

ほぐした綿を筒状にします。当地では、これをジンギといいます。

(4) ⽷紡ぎ(いとつむぎ)

綿筒(じんぎ)を⽷⾞(いとぐるま)で紡(つむ)いで⽷にします。

⽷から⽊綿へ

(1) 精錬(せいれん)、糊つけ

⼿紡ぎ⽷はそのままでは油分があったり、切れやすいので、煮沸して油分をとばし、糊をつけて切れにくくします。

(2) 枠移し(わくうつし)

かせ⽷を⽷枠に移します。

(3) 整経(せいけい)

⽷枠から経⽷を作る。

(4) 筬通し(おさとおし)

経⽷を⼀本⼀本筬に通す。

(5) ⽷綜絖(いとそうこう)を作る

⽷を互い違いに上下させるように、⽷そうこうに⽷を通す。

(6) 千切巻き(ちきりまき)

筬(おさ)や糸そうこうを通した経糸(たていと)を千切(ちきり)に巻く。

(7) 機(はた)にかける

準備できた経糸を織機(しょっき)にかける。

(8) 機を織る

横糸(よこいと)を通し、織り上げていく。

河内の⼿織り機下機 (しもばた)

河内⽊綿を織り出した織機はどのようなものだったのでしょうか。江⼾時代、河内では「下機(しもばた)」と呼ばれる⼿織り機(ておりばた)を使っていたようです。

下機(しもばた)とは河内地⽅の呼び⽅で、当時のある書物では「⽊綿機(もめんばた)」とも書かれています。

伝統的な⽇本の⼿織り機には、⼤きく⼆つの種類があり、経⽷(たていと)を機⾃体で固定する形式の「⾼機(たかばた)」と、 織り⼿が経⽷の腰につける形式の「地機(じばた)」にわけられます。

下機は、後者の地機に属する織機です。写真でもおわかりのとおり、織り⼿が腰板で経⽷とつながっています。 この腰板の使い⽅、及び招き⽊と呼ぶ部品を⾜でうまく操作して、経⽷を上下させたり、⽷を張ったり、緩めたりして、横⽷を⼊れていきます。 ⾼機に⽐べて、熟練の技が必要ですが、織り⼿の個性がよくでる織機といわれています。

なお、横⽷を⼊れるのは、⼑杼(とうじょ)と呼ぶ道具を使います。この道具で、横⽷を通す作業と、打ち込みの作業がともにできます。

実は最近まで、河内⽊綿を織っていた織機はほとんどみつかっていませんでした。 わずかに東⼤阪市⽴郷⼟博物館の下機が⼀例確認されているだけでした。 しかし近年、⼋尾市内の旧家で下機がみつかり、その他のところでも少しづつ確認されています。

Part.05 ⽊河内⽊綿体験コーナー

資料館では、綿繰りや⽷つむぎなどの「河内⽊綿体験」も可能です。
学校などへ、河内の綿の提供や体験キット(綿繰り機‧⽷⾞など)の貸出も実施しています。

河内⽊綿体験学習会

資料館では、毎年8⽉頃に「河内⽊綿親と⼦の体験学習」を開催しています。 資料館隣の畑で栽培している綿の綿摘み、摘み取った綿から種を取りのぞく綿繰り機や綿打ち、⽷つむぎなどを体験します。 開催⽇については、当ホームページをご覧ください。