Part.01 河内木綿とは
江戸時代から明治時代のはじめにかけて、河内地方で栽培された綿から糸を紡いで手織りされた木綿のことを、一般に「河内木綿」といいます。 日本で綿が広く栽培されたのは、15世紀末ごろの戦国時代といわれています。 当時木綿は朝鮮半島から輸入された高級品でした。やがて木綿の原料となる綿の国産化が試みられるようになりました。 河内地方で、いつごろから綿が栽培されたのかは、はっきりとわかりませんが、少なくとも江戸時代のはじめごろには、盛んに栽培されていたようです。
江戸時代に河内での綿栽培や木綿生産が盛んであったことは、いくつかの記録で明らかになっています。 17世紀に刊行された『毛吹草』という本には、河内の特産のひとつとして「久宝寺木綿」が紹介されています。 同じく17世紀の刊行である『南遊紀行』には、「河内は綿を多く栽培し、とくに東の山のふもとあたりが多く、 その綿から織った山根木綿は京都で評判になっている」と記されています。
18世紀の初め、1704年(宝永元年)に大和川が付け替えられると、それまでの川床が畑として生まれかわり、綿作りがますます盛んになりました。 18世紀中ごろの久宝寺村(現八尾市)の田畑の作付状況の記録には、村の耕地の7割に綿を植え付けたと記されています。 八尾や久宝寺、周辺の村々には木綿を扱う商人が増え、仕入れや販売の競争が激しくなりました。1755年(宝暦5年)には、 八尾の木綿商人の仲間と、高安山麓の木綿商人の仲間が、商売の仕方についての取り決めをしています。
明治時代になると、繊維の長い綿や細い綿が外国から輸入され、工場の機械で一度にたくさんの綿が紡げるようになりました。 河内の綿は外国の綿に比べて繊維が短く、糸が太いため機械で紡ぐことには適していませんでした。 明治30年代には、産業としての河内木綿は終わりをつげました。 ある古老の話では、「婚礼荷物で用意する木綿の布団は、やはり本当の河内木綿でないと」とよくいわれ、大正時代ごろまでは残っていたようですが、 そうした習慣も少なくなり、江戸時代の伝統を受け継いだ「河内木綿」は、戦前までに姿を消してしまいました。